成田山仙台分院の沿革・建立の経緯
大本山成田山 仙台分院とは
真言宗智山派 大本山成田山の仙台分院として宮城県仙台市青葉区川内亀岡に開基しました。成田山新勝寺の「不動明王」御分身、御分霊を勧請し、仙台分院のご本尊として仕えています。
また伊達政宗氏が仙台に移るまで407年間仙台地方(当時の国分荘)、 33ヶ村を統治していた「国分氏」の初代〜17代の城主の霊を当山では安置しております。
真言宗智山派 大本山成田山 仙台分院は、「不動明王」の前にて、皆さまの家内安全、厄払いなどを祈願しております。
また、当山では、人形供養、水子などの供養も行っております。
成田山仙台分院屋上の不動明王大仏
建立の経緯
大本山成田山仙台分院の施主である国分壮導師の半生記である国分壮伝からの成田山仙台分院建立の経緯の抜粋です。
昭和五十四年五月六日、会員数二千名を擁する成田山仙台奉賛会が結成され愛知和男衆議院議員が会長に就任した。
十一月十五日に、大本山成田山新勝寺から分院建立のための成田山仙台奉賛会の設立が許可され、愛知会長の後を受け継いだ今泉清会長が、施主国分壮先達導師の悲願達成に向けて出発することになった。
ここに至るまでが難儀であった。本山に出向いて数回にわたって仙台分院の勧請を嘆願しヽ地元有力者に対しては勧進し奉賛会員として協力してもらうよう、お願いして廻り、一定の会員を組織しなければならなかった。
この間、本山は施主が寺院建立の人物としてふさわしいかどうか厳密に検討していた。格式ある大本山成田山新勝寺としては当然のことである。
本山より、身内から住職予定者を立て、新勝寺で修業させるように命ぜられた。これに応えて昭和五十五年四月、長男の俊宏が新勝寺に修業に出た。翌年三月、得度し伯龍師となって開山の住職となるべく修業を積んでいた。
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創建の趣旨について次のように述べている。
私は以前から仙台に成田山の東北別院か分院を建立したいと念願して参りました。
関東、関西、四国、九州、北海道には既に分院或いは別院が建立されて、地方の人々の信仰をあつめておりますが、何故か私たちの郷土には建立されておりません。
仄聞するところによれば、今まで幾たびか、寺院建立の計画があったとの事であります
が、「お不動さま」のお許しが出なかったようでございます。
成田山と申せば天慶三年(九四〇年)の創建以来一千有余年もの間、霊験あらたかな「お不動さま」として名高く、昔も今も全国からの参拝人で賑わい、香煙の絶えることかおりません。
それで私は念願の寺院建立のため、かねてからその適地をさがしておりましたところ、幸いにも仙台のシンボルである青葉山で東北大学の隣に絶好の上地を求めることが出来ました。
我が国は、戦後、長い歴史の中で数多くの同胞が奉仕と犠牲を重ねた結果、民主国家となり一般国民が民主主義を享受し、経済大国に成長しましたが、その一方では民主主義の履き違いから、利己主義に陥り、社会に多くの悲劇を起こしていることはまことに悲しむべきことであります。
社会福祉という名のもとに国や地方団体では、それぞれの立場で社会福祉事業や施設の運営をしております。が、実際にその運営に携わる人たちが真の社会全体の幸福とは何かを理解し、自らの自覚と誇りをもってこの仕事に取り組んでゆくことは仲々難しいことであると思います。
私は仏語に言う「無我」自他一体の理念を求め、「支えられつつ、支えつつ」「生かされて生きる。生きて生かされる」の相互助け合いの精神に立ち還って。貧困、傷病、心身障害或いは不時の災害”などのため日常生活の中で、欠乏、困難、不自由などに苦悩しつつある人々の真の願いを受けとめたいと願うものです。
そして、地位や身分、財産等に関係なく、男も女も平等に加持を修し、功徳を授けることのできる大衆のための祈願所を建立して、東北に住む九百万余の人々の幸福と繁栄のために支柱となることを希うものであります。
と高らかに宣せられている。
山号に「成田山」を戴き、寺号を「国分寺」と決めて国分壮先達導師はほっと肩の荷を下ろすのであった。
思えば遥かな時代、大和朝廷の覇権がようやくなって七世紀後半には日本の国号と天皇の称号が正式に決まった。
隋、唐に倣った大宝律令(七〇一年)、養老律令(七一九年)の中央集権国家の体制が整えられた頃、東北地方は、伝説王アテルイが勇武を誇った蝦夷地であった。
聖武天皇の神亀元年(七二四年)多賀城が設置され北方への圧力が強まった。
栃徳天皇の神護景雲三年(七六九年)伊治城、桃生城が作られ、桓武天皇の延暦七年(七八八年)には、東海、東山の両道と、坂東諸国より歩騎五万人余を動員し、多賀城に集めて征夷の大軍が発せられた。
延暦十六年(七九九年)、坂上田村麻呂が征夷大将軍に任じられた。朝廷の支配下に入り一般農民の生活に同化した俘囚と、同化の程度の浅い夷俘に区別されたこともこの頃である。
陸奥に和我、稗縫、斯波の三郡が置かれたのは嵯峨天皇の弘仁二年(八一一年)であった。
この頃、みちのく(陸奥)は、磐城、岩代、陸前、陸中、陸奥の五ヶ国に出羽(羽州)を加えて奥六郡といわれた。
陽成天皇の元慶二年(八七八年)出羽国の夷俘反乱し、秋田城等を焼き、陸奥、上野、下野国より援軍来り、旱魅による飢饉下の夷俘も相次いで投降し、反乱は平定された。
朱雀天皇の承平五年(九三五年)平将門は伯父の国香を常陸で殺して平将門の乱が始っだ。天慶二年には下野、上野国府を攻め取り新皇と称し(九三八年)除目を行ったが、翌天慶三年(九三九年)に、征夷大将軍藤原忠文と下野押領使藤原秀郷、平貞盛らに敗られ将門の乱も終わった。
下って一〇六二年、後冷泉天皇の康平五年出羽俘囚の清原武則は一万余の兵を率いて陸奥国へ向い、前陸奥守源頼義らと奥六郡の司、安倍頼時と貞任・宗任の親子を鳥海柵(前九年の役)、に破った。源義家は陸奥守として白河天皇の永保三年二〇八三年)清原家の内訌に干渉し、家衡を金沢柵に攻めた。
この両役を契機として東国に源氏の勢力が築かれた。
藤原清衡は経清の子であるが、源義家の援軍によって清原家衡・武衡らを滅ぼしてから、奥羽両国の押領使となり鎮守府将軍を兼ねて奥羽随一の豪族となった。
堀河天皇の長治二年(一一○五年)最初院(中尊寺)を建立し、崇徳天皇の大治元年(一一二六年)中尊寺金堂・三重塔等の落慶供養を行った。
古代律令国家も「青によし」と謳われた奈良時代を最盛期とし、桓武天皇の平安遷都の再興期を境として約三百年の幕を閉じ、官名を京都に残すのみとなって、守護、地頭が実力を持つ荘園時代に入り、武士団の勃興を促すようになった。
清和天皇の貞観八年(八六六年)、藤原良房に天下の政を摂行させ(摂政)、宇多天皇の仁和二年(八八六年)藤原基経を関白として摂関政治となり、白河天皇は応徳三年(一〇八六年)善仁親王(八歳)を皇太子として即旦譲位して白河上皇となり院庁で政務をとった。院政のはじまりである。
平将門を討った平貞盛の子、維衡は当時の四天王の一人に加えられた勇気衆に勝れた人であったが、子孫は伊勢国に住し伊勢平氏として栄え、平清盛を出すことになる。
高倉天皇の治承四年二一八〇年)以仁王の平氏追討の令旨が発せられた。源頼朝が伊豆に挙兵して以来、平氏一門が一谷、屋島、壇ノ浦で滅ぶまでは、「義経記」「平家物語」
でつとに有名である。
高倉天皇の治承四年(一一八〇年)以仁王の平氏追討の令旨が発せられた。源頼朝が伊豆に挙兵して以来、平氏一門が一谷、屋島、壇ノ浦で滅ぶまでは、「義経記」「平家物語」でつとに有名である。
戦功のあった義経は兄頼朝の許可なく、検非違使・左衛門尉に叙せられたばかりに怒りを買い、後鳥羽天皇の文治三年(一一八七年)陸奥の藤原秀衡のもとに到った。
秀衡没しその子泰衡は文治五年二一八九年)衣川に義経を襲って殺したが、頼朝は泰衡追討のため鎌倉を出発する。
頼朝挙兵以来、その幕下にあって数々の武功のあった千葉介常胤(一二〇一)、胤道(一一五五〜一二一二)父子もこの追討軍のなかにあった。
千葉氏は武蔵押領使、上総介、下総権介などを歴任していたのである。
鎌倉に帰った頼朝は諸兵に恩賞を与えたが、千葉胤道には、仙台の近郊の三十三ヶ村を与えた。
千葉近在の国分の地名をそのまま冠したので国分の荘(庄)と呼ばれるようになり、国分氏の祖となったのである。
国分氏は、当初郷六(仙台市西郊)に城を置き、後に千代(現在の仙台城址・別名青葉城址)に築城した。
十六代の盛顕の継嗣盛廉は、文禄の役の朝鮮出兵に従い戦死したので、伊達左京大夫晴宗の第五子で、伊達政宗の叔父にあたる盛重を家督にもらい受けた。
文禄三年(一五九四年)「竹に雀」の紋を賜ったが、慶長元年三月叛意ありと政宗の討手を受け、家臣三十三名と共に姻戚にあたる常陸の佐竹義宣を頼って落ちのびた。ここに国分氏は亡びたのである。
郷土史に次のように記されている。
天正十四年(一五八六年)伊達政宗が畠山氏を攻めて奥州仙道七郡に軍を進めたとき、国分盛重もこれに従い、原田左馬介、天童頼澄などの軍と共に人取橋の戦いで苦戦の末、国分勢は白岩、糠沢、本宮附近に退き、帰農するものが多かった。現に白岩の住民に国分の姓が多いのは、これに由来する。
国分の姓を承け、仙台に住すること久しく、先達導師の思いは高まり深まるのだった。
仙台に出よ
国分氏先祖代々の霊を弔え
不動明王は成田山の我なるぞ
祖父側治助、父側源治の言葉が日々思い出され、時として夢枕に立たれて、ハッと眼が醒めることもしばしばだった。
勧進の言葉にも熱がこもる。
お不動さまが我が国に伝来された由来を中しますと、昔、弘法大師が密教の奥義を求めて中国に学び、業を終えての帰路の船中にて大暴風雨に遭い、既に危くなったとき、大師は一心不乱に。南無能満虚空蔵大菩薩”と繰り返し唱えられました。
と一大雷鳴と共に大聖不動明王のお姿が現れ御霊示がありました。
汝のためにわれ救護せん。
吾を信ずる者には総べての苦しみを除き、迷いを払い、善智を授けよう。
又、吾が心を知る者には総べての願いを叶えよう。
汝は吾が化身となり衆生の苦悩を救うべし
風雨は忽ち鎮まり九死に一生を得られたと伝えられております。
これを。波切り不動”と申しております。
大師はこの時のお諭しを信奉し、帰国後直ちに不動明王のお姿を描き、御尊像を刻み、経文を草して全国を行脚され。お不動さま”をお祀りしては信仰を弘められたのであります。
「お不動さま」の霊験については数限りなく、弘法大師の事績をみても、病める者には言言秘密の念力と加持、剣による外科療法、灼熱による灸療法を民間に授け、又薬餌を与えて病を癒しました。
又、苦しむ者には楽を、悲しむ者には喜びを与え、罪を犯した者にはこれを悔い改めさせました。
この様な超人の業は総べて。お不動さまのお導きによるものと信じます。
お不動さまは宇宙万物一切の根源であり、言うなれば私たちの生命の親さまであります。
生も死も、貧も富も、喜怒哀楽も、可能も不可能も、皆悉く、お不動さまの御心の儘(まま)にあることを自覚しなければなりません。
私たちは常に一身を。お不動さまに托し、私心を離れて一心に。お不動さまに帰依
し奉ることが、仏門に救われる第一義であると信じます。
このたび青葉山にお祀りする成田山のお不動さまは高徳大智、これ即ち強い意志と高い智恵、深い慈悲をたたえて一切衆生を済度するため、身を炎熱の中に坐して忿怒の相を具現し、我が身を捨てて一切衆生を救うため八方を睨みつけておられます。
着工は昭和五十六年五月。
昭和五十七年三月に上棟式を行い、いよいよ十月二十八日、成田山国分寺は落慶大法要の日を迎えることになった。
大本山成田山新勝寺の貫主、松田照度大僧正猊下に従う僧侶、稚子など三十名。
続いて施主、国分壮先達導師、住職国分伯龍師、来賓の国務大臣防衛庁長官伊藤宗一郎衆議院議員や、今泉清成田山仙台奉賛会長をはじめ、責任役員、檀信徒代表など約二百名が本堂と境内を埋め尽した。
朗々とした大読経の後、大僧正貌下によって開山が宣せられ、施主、住職の叩頭の礼を
以て式は終了した。
林立する灯明の炎が赤々と燃えていた。
続いて奉賛会館の屋上に会場を移す。
海抜一三八メートルの屋上に、高さ一六メートル五〇、重さ二五トン、砲金青銅製の日本一高いお不動さまが忿怒の形相で周囲を眸睨している。
開眼供養の読経を終わった。
二階の会館食堂には盛大な祝宴が張られ、並居る善男善女も頬を赤く染めるのであった。
大本山成田山仙台分院の着工
昭和57年開山当時の大本山成田山仙台分院プロモーションビデオです。
成田山仙台分院の上棟式
成田山仙台分院の施工
成田山仙台分院建造 報道
建設新聞 昭和56年5月18日
来賓迎えおごそかに 成田山不動尊本堂の建立 青葉山で地鎮祭
成田山経ヶ峰国分寺(真言宗)と赤門学士院鍼灸柔専門学校の地鎮祭が15日、仙台市荒巻字青葉の建設予定地に来賓多数を迎えておごそかに催された。
はじめに、成田大本山新勝寺の導師3人が表白、次いで盟主・国分壮氏が鍬入れを行い、工事の安全と早期完成を祈願した。
このあと国分氏があいさつに立ち「仙台を一望できる景勝に恵まれたこの青葉山に、長年の悲願でありました成田山御不動の本尊建立ならびに鍼灸柔専門学校の新設が本日ようやく日の目をを見、真に喜ばしい限りであります。ついては、皆さまがたの深いご理解とご協力をさらにお願いいたします。」と述べ拍手をあびた。続いて地元選出国会議員など来賓が祝辞を述べ式を終了した。
この後、市内川内の赤門会館に席を移して祝宴を開き、起工を祝った。
高さ14mと日本一の高いものとなる成田山不動本堂ほか、美術館、および修業道場は57年9月、専門学校は58年3月に完成を予定しており、施工は熊谷組、設計管理は三和都市建築が担当する。
なお、将来計画として、東洋医学専門学校と私立病院などの建設も構想にのぼっている。
河北新報 昭和57年2月25日
新寺院の建造着々 仙台・青葉山の中腹 日本一高い不動明王も
仙台市街を一望に見下ろす青葉山の中腹に、新しい寺院の建造が進んでいる。号して「成田山経ケ峰国分寺」。境内には「日本一の高さ」を誇る不動明王像(14m)も建立されることになっており。開山はことし10月末の予定。
経ケ峰国分寺は伊達氏以前の400年間、仙台地方を統治していた国分氏一族の霊と、太平洋戦争での戦没者の霊を弔うとともに、市民の平安を願うことを目的に、宗教法人「成田山経ケ峰国分寺」(国分伯龍代表役員)を設立、寺院建立を計画した。
同寺の建設場所は亀岡八幡神社西側の青葉山の高台。総面積約6500m²の敷地に、鉄筋コンクリート造り270m²の本堂のほか、山門、車祈祷所、ヨガ断食道場、それに3階建ての「奉賛会館」が建設される。会館は1階が食堂、喫茶、2階が休憩所、3階は美術館という設計。
奉賛会館の屋上には、高さ14mの不動明王像が建てられる。青銅製の坐像で、現在台湾で製作中。お不動さまとしては日本一の高さだという。
総額30億円の事業費は篤志家の寄付で賄うことにしており、昨年5月に着工して既に7割工事が進んだ。8月末には完工、10月28日に盛大な落慶法要を営む予定だ。
折りたたむ
建設新聞 昭和56年4月22日
【成田山経ヶ峰国分寺・赤門学志院】 開発許可おり5月着工
仙台市 荒巻 寺院と鍼灸柔整専門学校の新築
成田山経ヶ峰国分寺(仙台市川内川前町六一 代表者国分伯測氏)と赤門学志院(仙台市川内川前六一 代
表者・国分壮氏)では、仙台市荒巻字青葉地内に寺院と鍼灸柔整専門学校をの新築を計画していたが、今月中
旬に開発許可がおりたため、五月にも着工する方針である。寺院は、本堂に併設して奉賛会館を設けるもの
で、五七年九月末の完成を予定している。また専門学校は、一階から四階に学生寮、五階から九階までに各
種専門教室のほか診療室などを設けるもので、工期は五八年三月末。今回の計画は、「青葉山総合計画」(仮
称)の第一期であり、引き続き第二期工事(女子寮ほか)が計画されている。なお、建築の実施設計は三和
都市建築が担当した。
「工事規模」
寺院=鉄筋コンクリート造地下一階地上三階建 二、四四七・一七平米
専門学校=鉄筋コンクリート造九階建 三、六一四・五九四平米
「施工地」
仙台市荒巻字青葉三三ほか地内
サンケイ新聞 昭和57年5月10日
こんにちは希望訪問 成田山別院を建立
国分壮(こくぶん・さかり)さん 仙台市内にある赤門学志印理事長で、ハリ・キュウ専門学校をはじめ、自動車学校、同整備
学校、ユースホテルなど”赤門グループ”の経営者。四人の子供がそれぞれ分担し、運営している。現在、青葉山に成田山経ヶ峰国分寺
を建立中で、十月末、盛大に落慶法要が行われる。日本一高い不動明王像がお見えする予定で、「地域社会の役に立ちたい」―と、
情熱を傾けた大事業がもうすぐ実現する。長い間かかって収集した貴重な美術品の展示館も併設されるなど仙台の名所の一つになりそう。自宅は、
仙台市川内川前丁六一。福島県安達郡本宮町出身、六十六歳。
赤門学志院理事長 地域のお役に
―成田山別院を仙台に建立することになったキッカケは。
「私自身、支那事変に参戦し、右手を負傷し、九死に一生を得ましたが、多くの戦友が犠牲になった。さらに太平洋戦争での戦没者
の霊と、伊達氏以前の四百年間、仙台地方を統治していた国分氏一族の霊を弔うためです」
―計画はいつごろから。
「二十数年前から、仙台に成田山の東北別院か分院の建立を念願していました。具体化したのは数年前からで、幸いにも仙台の
シンボルである青葉山の一角(経ヶ峰)に敷地を取得できました。仙台市を一望に見下ろせる絶好の場所です。
五十四年に県内政財界の協力で奉賛会を結成し、入会者は現在、六千人、将来は一万人にまで増やす計画です」
―寺院の規模は。
「敷地が約六千五百平方b。鉄筋コンクリート造り二百七十平方bの本堂のほか、山門、車祈とう所、ヨガ断食道場。その
ほか鉄筋コンクリート三階建ての奉賛会館を新設する。とくに三階には美術館を併設し、私が長年にわたって収集してきた書画
、陶磁器、刀剣など約二千点の美術品を展示します。このなかには国宝、重文クラスの貴重なものもかなり、含まれています」
―工事の進行状況は。
「昨年五月に着工、さる三月、本堂の上棟式を終え、十月までに完成する。とくに奉賛会館の屋上に建てられる不動明王像は高さ
十四b、重さが五十dもあり、お不動さまとしては日本一の高さだ。青銅製の座像で、現在、台湾で制作中で、七月中に運んでくる予定です。
総額30億円の事業費は篤志家の寄付で賄うことにしている 」
―落慶法要の日程は。
「十月二十八日を予定しています。成田本山から貫主を招き、仙台駅前からオープンカーでパレードするなど盛大に行う予定です。
開山した際は成田山で修行した長男(得度名、伯龍)が住職になって運営に当たる。
なんといっても市民の平安を祈願するのが第一で、”信仰の場”としてみなさんから愛され、親しまれるようにしたい」
東北寺院ニュース 昭和57年10月10日
仙台に新寺建立
仙台の経ヶ峰に赤門寺・成田山仙台別院が新寺建立された。総工費十六億が投入され十月二十六日落慶式を行う。
読売新聞 昭和57年10月28日
仙台・青葉山に新名所 「成田山国分寺」が完成 国宝級そろえた美術館も
仙台市街を一望に見下ろす仙台市荒巻青葉山の中腹に建設が進められていた新寺院「成田山経ヶ峰国分寺」が完成、
二十八日、落慶法要が行われる。鎌倉時代から約四百年間にわたって仙台地方を統治した国分氏一族の霊などを祭った
もので、仙台の新名所となりそうだ。
そそり立つ日本一の不動明王
この寺院の建設を進めていたのは、成田山経ヶ峰国分寺奉賛会(今泉清会長)。愛知和男代議士(初代会長)ら地元
有志役三十人が発起人となり、五十四年五月に結成された。国分氏一族の霊や太平洋戦争の犠牲者を弔い、市民の平安を
願うことを目的に、大本山の成田山新勝寺の分院または別院として建設が進められてきた。総額三十億円にものぼる事業費
は、篤志家の寄進などでまかなわれている。
大駐車場が完備
新寺院は、仙台のシンボル青葉山の中腹に建設され、快晴の目には仙台市内のほか、松島や仙台空港まで遠望できる。約
三万三千平方bの広大な土地に、成田山経ヶ峰国分寺本堂、鉄筋三階建ての美術館が設置されるほか、三居沢の貝化石層見学地、
伊達屋敷誘致予定地、テニスコートなども含まれており、駐車場(バス二十台、乗用車二百台収容)も完備。
本堂には国分氏十五代の位牌(いはい)が収められるが、ひときわ目をひくのは美術館。同寺新設の呼びかけ人でもある
財団法人「赤門学院」理事長国分壮氏が長年収集してきた絵画、刀剣など二千点が展示され、池大雅の「花鳥図」、尾形光琳の
「牡丹図」など国宝級がずらり。日本、韓国、中国などの古美術品を中心に東洋美術に徹した展示となる。保険会社の見積もりに
よると美術品の総額は、約六十億円にものぼる、という。
美術館屋上には台座も含め、十六bと日本一の高さを誇る銅製の不動明王像が建立され市内を見下ろす。
新観光コースに推薦
仙台観光協会会長を兼任する島野仙台市長も、仙台の観光コースとして、この新寺院を国鉄に推薦。
北海道から関西まで二千三百七十三駅にPRポスターが張られる見込みで、新幹線時代の仙台の新名所になれるか?
なお、二十八日の落慶法要には、大本山の貫首も出席の予定で、仙台駅から寺院までのパレードなどもある。
河北新報 昭和57年10月29日
稚児行列など練り歩く 仙台 経ヶ峰国分寺が完成
仙台市青葉山に【成田山経ヶ峰国分寺】(国分伯龍住職)
が完成、二十八日落慶大法要と稚児行列などが行われた。
落慶法要には大本山成田山の貫主松田大僧正や市内の同
宗門の僧、信徒ら約七百人が出席、本尊、屋上の不動明王、
車祈とう所などの入仏式を行った。会館内の美術館、展望
台もこの日からオープン、大勢の市民が押しかけた。
またこれに先立って、午前十時から山伏姿の僧や、きれ
いに着飾った稚児、それに市民ら約三百人が、落慶を祝っ
て一番町の買い物公園を練り歩いた=写真=。
朝日新聞 昭和57年10月29日
成田山に稚児さん 仙台
仙台市荒巻青葉山に成田山の分院が落成、二十八日、記念パレードが仙台市
の買物公園であった=写真。
ホラ貝を吹く、山伏を先頭に、信者、稚児衣装を着けた子供たち、僧侶(そうりょ)
ら約三百人が三十分にわたって、仙台市一番町の買物公園を練り歩いた。
稚児は約四十人。信者の子供や孫たちで、零歳から五歳。男の子は、えぼし、
女の子は冠をかぶって行進。かわいい金刺しゅうの衣装が朝の日差しにキラキラ輝いていた。
山形新聞 昭和57年11月1日
日本一の不動明王完成
仙台市の市街地を西方から見下ろす同市荒巻青葉山の中腹に、
身の丈十四bという日本一高い不動明王像が完成した。
像を建立したのは、成田山経ヶ峰国分寺(国分伯龍住職)。
不動明王は、本山である成田山新勝寺(千葉県成田市)の約一bの
本尊を復製した青銅製の座像で、台座を含めると十六b、重さ約二十d
もある。台湾で型枠に青銅を流し込んで製作したあと、分解して船で運んだ。
サンケイ新聞 昭和57年11月10日
エコーライン 仙台に新しい観光名所
仙台市青葉山の一角にオープンした「成田山経ヶ峰国分寺」(国分伯龍住職)は、
新しい観光名所としてにぎわっている。
なかでも高さが十六bもあり、日本一大きい青銅製の不動明王像をはじめ美術館、修養
道場などが人気のマト。信者のほかに一般の観光客も詰めかけている。
昭和59年6月2日
なぜ成田山なのか
建立施主の国分壮は三歳で母に死別し苦労を重ねつつ成長しました。
師は幼少の頃から信心深く、また、霊示があり、地元からは愛され、
青年期に至っては地元に後援会が組織されました。かつてのシナ事変、
太平洋戦争にも出征、戦地に至っても「俺には弾は当たらない。俺のあと
について来い。」と話していたそうです。それは「わしにはお不動さまが
守っていてくれる」との信心からでした。やがて二十四歳で得度を受け修行
を積み、進んだそうですが、天業である東洋医学の道に精進しながらも主護
仏である成田山不動王をまつる寺院建立をしなければ死に切れぬと心願成就
の祈願を続け大本山と交渉を重ねご本尊さまの許可を得たといいます。昭和
五十七年十月落慶入仏式以来、日本一高いお不動さまも建立されました。霊験
とご利益の高いお不動さまを慕う信徒は日増しに増え、全国から仙台の成田山
へと参拝者が絶えないようになりました。施主国分老師も念願が叶い満足して
いるようです。お不動さまは厄災病除のみでなく如何なる願いも達成して下さる
み仏です。真剣にお不動さまにおすがりし祈願申し上げる事により如何なる望み
も達成されるといわれます。その見本が国分老師であると言っても過言でない
でしょう。決して悪いことをしてはいけません。悪気があればみ仏は見放します。
過去に禍根のあった方でも心を入れ替え世のため人のために精進されれば、必ず
ご利益があると建立施主は言います。
更正保護みちのく 昭和61年4月1日
写真解説 〜仙台市〜 成田山国分寺
成田山国分寺は、大本山成田山新勝寺の仙台分院として昭和五七
年一〇月二八日開山し、施主、財団法人赤門学志院理事長国分壮氏に
よって建立されたものである。
当山は海抜一三八米に位置し、諸願の祈祷陸、海上安全、厄除、
災難除、水子供養など願う人々に、不動明王の霊験、ご利益を与えるため鎮座したもので、
毎日の参拝者も多く香煙の絶えることもなく、仙台市の新名所として賑っております。
更に当山には、展望台もあり眼下に在る仙台市街の景観は人々を夢幻境に誘う。
そして、太平洋から松島まで一望もでき、夕暗が迫れば百万ドルの夜景、まさに桃源境である。
また、美術館もあり、国宝級、重要文化財級の書画、陶磁器、刀剣、武具、ブロンズ、洋画
類など東洋美術の逸品を展示、ニケ月毎に約三分の一を入替えて、参拝者の好評を得ている。
交通機関は、定期観光バスの乗り入れ、市営バス「成田山国分寺」行きも運行されている。
乗車場は、仙台駅前通り東海銀行前、市営バス四三番で、二〇分間隔て発着している。
西部警察と成田山仙台分院
昭和58年9月、人気テレビ番組「西部警察」が仙台でロケされ、成田山国分寺もその場面に取り入れられた。人気俳優の石原裕次郎が健康を向復して来仙したのでロケ地はファンで埋まった。施主国分壮導師は人気俳優とともに和尚として出演した。石原プロから「特別俳優」として演技力をつけてもらったが、若かりし頃、一時和尚をしていたので、テレビカメラなんのその、堂々の出演であった。
西部警察仙台偏
西部警察掲載の大本山成田山仙台分院
大本山成田山仙台分院の掲載ページ記事・特記事項
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この大本山は千葉県にある成田山新勝寺の分院として1982年(昭和57年)に開山した寺院で、比較的新しいにもかかわらず、多くの仙台市民に愛されてきた。また宮城県内でも有名な初詣地としても知られ、毎年多くの参拝者が足を運んでいる。
徳重を迎えたのは仙台の国分壮さんの長男で住職の国分伯龍さんである。
「父は5年前に亡くなりましたが、“西部警察”にゲスト出演して、柴俊夫さんと競演させていただいたことを自慢にしていました。“西部警察”さんからの恩恵は大きく、裕次郎さんが奇跡の生還を果たした病後のあと、大本山成田山新勝寺で厄払いの参拝をした縁などでこちらをロケで提供させていただいたのです。」
仙台市内の高台にあるこの成田山仙台分院の最も象徴的なものが高さ16.5メートルもある総重量25トンの成田山大仏だがやはり、“西部警察”のロケ地として、参拝客に人気も高い。
その他特記事項
住職が千葉の成田山で修行中に、山伏などが火を焚く屋外での大きな行事(柴灯大護摩供火渡り行)があり、住職は修行中であったので、末席で参列し行事に参加していた。そのなかで、石原裕次郎さまが行事に参加して護摩を受けていたのが印象にのこっている。当時のことだから、当病平癒か身体健全の祈願でしょうか。仙台成田山が開山し、その2年後には、西部警察の撮影協力があり、このような形で参加するとは夢にもおもっておらず、ご縁があるなあと、思った次第です。
成田山仙台分院に関するお問合せは下記にて承ります。
大本山成田山仙台分院
住所 :〒980–0845 宮城県仙台市青葉区荒巻字青葉33-2
電話番号:022–225–8640
FAX :022–225–8655